薩長同盟って?背景から内容まで分かりやすく解説します!②
八月十八日の政変で
京都を追われてしまった長州。
その原因は薩摩。
まぎれもなく薩摩。
しかし薩摩と長州の衝突は、
一度だけでは終わりませんでした。
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仲が悪い理由は?
2.禁門の変
八月十八日の政変の後、
まだこっそり
京都に潜んでいた長州藩士たちは
長州が京都から
追い出されたのは
薩摩と会津のせいだ…
薩摩たちが天皇様に
あらぬ入れ知恵をしている…
と考えました。
そこで一旦天皇様を誘拐して
長州に来てもらおう…!と、
なんとも過激なことを思いつきます。
ただこの情報は
ダダ漏れだったようで、
作戦会議をしていたところに
新選組が乱入。
長州にとって、
斬られるか逮捕されるかの
大惨事になります。
これが有名な
池田屋事件ですね。
八月十八日の政変と
池田屋事件で
完全に危ない奴ら扱いの長州さん。
今度は
「自分たち悪いことはしてません!」
「冤罪です!」
と訴えるために
兵士を引き連れて
京都の入り口までやってきます。
許してください、
という内容の手紙を渡すのですが
「来るなって言ったでしょうが!」
と天皇様はお怒りモード。
再び「あいつら京都から追い出して」
と指示が出たため、
長州vs薩摩&会津+諸藩の争いになります。
これが禁門の変です。
兵の数が全く違ったこともあり
長州はボロ負け。
ボッコボコにされます。
しかも天皇様に
たてついたということで、
朝敵(=天皇様の敵)と
みなされてしまう始末…
泣きながら
お国に帰った長州さん。
天皇様には嫌われるし、
仲間は失うしで
もう失意のどん底です。
こうなったのも元はといえば
薩摩たちのせいだ…と
憎しみはピークを迎えます。
わらじやゲタの下に、
要約すると
薩摩と会津のバァァァァカ!
なんていう意味の
薩賊会奸(さつぞくかいかん)と書いて
踏みつけながら歩くくらいの
憎みっぷりだったそうです。
3.長州征伐
禁門の変のお仕置きとして、
幕府は長州征伐をするようにと
色々な藩に指示します。
つまり追いかけて
もっとボコボコにしてきなさいと
いうことですね。
しかもこの長州征伐の
リーダーに指名されたのが
薩摩藩です。
あらららら…
ただこのときの長州はボロボロで
とても戦ができる
状況ではありませんでした。
もう藩が存続できるか
できないかくらい
追いつめられている状態です。
ですので戦争は起こらず、
苦汁を飲みつつ
長州は降伏することになります。
こうした数回の争いがあり
薩摩と長州は
犬猿の仲になったのです。
もう完っ全に
敵同士な雰囲気の薩摩と長州。
しかしそんな二藩にも
この後少しずつ
変化の兆しが見え始めるのです。
そのきっかけは
どんなことだったのでしょうか?
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