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薩長同盟って?背景から内容まで分かりやすく解説します!①


幕末を語る上で
欠かせない出来事といえば、
薩長同盟
あげられると思います。

有名な出来事ですが

「薩長って…薩摩長州だっけ…?
その薩長がどうしたって?」

なんて方も
案外多いと思います。

そこで!

今回は薩長同盟について
背景なども含めて
解説していきたいと思います!

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薩長同盟とは?

黒船来航をきっかけに、
外国と交流
持つようになった日本。

しかし外国の武力が怖い幕府は、
外国に対して
弱気な態度を続けます。

当然人気も権威も
ガタ落ちです。

それを見ていた
薩摩藩長州藩

「幕府は頼りにならない…
新しい政府を作った方がよさそう」

と考えて、幕府を倒すために
協力しようと約束します。

これが薩長同盟なんですね。

ここで注目して欲しいのが
薩摩と長州は
もともと仲が悪かったということです。

なぜ犬猿の仲だった両藩が
同盟を結ぶことに
なったのでしょうか。

そしてそもそも
なぜ仲が悪かったのでしょう?

 

薩摩藩と長州藩

幕末の頃の日本では
尊王攘夷論
叫ばれるようになっていました。

幕府への信頼がなくなっていたので、
天皇様中心の政治を求める
尊王論が高まっていたんですね。

さらに貿易などへの不満から、
外国人を追い出そうという
攘夷論も広まっていました。

その中でも特に
尊王攘夷論を推していたのが
長州藩でした。

天皇様大好きで、
バリバリの
過激派&武闘派の長州藩。

攘夷決行!と、
単独で外国船を砲撃するなど
なかなか大胆です。

…まあ撃ったのは
貿易にやってきた
商船なんですけどね。

 

一方の薩摩藩
天皇様幕府協力して
政治を行う
公武合体を推していました。

攘夷にも賛成していましたが
攻撃的な攘夷は好まず。

公武合体で日本を強い国にすれば、
外国も干渉してこなくなるだろうと
考えていました。

この考え方の違いが、
薩摩と長州の
衝突へと繋がっていきます。

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仲が悪い理由は?

さて、
不仲であります薩摩と長州。

仲が悪くなった原因の事件
見てみましょう。

 

1.八月十八日の政変

尊王攘夷を掲げて、
天皇様の住む
京都で活動していた長州藩

攘夷をやると言いつつ
何もしない幕府に
イライラを募らせた長州は

「天皇様が直接兵を指揮して
攘夷をしてください!」

とお願いしに行こうと
計画します。

しかし
薩摩会津と手を組んで
この計画をブロック

前もって天皇様に
「長州の言うこと聞いちゃダメですよ」
と釘を刺したのです。

正直、好き好き言われ過ぎて
長州が面倒臭くなっていた天皇様

自分で
挙兵までしたくないし…

ということで
「あいつら京都から追い出して」
と指示。

薩摩と会津が中心になり
京都から長州を追い出します

しかも京都への立ち入りまで
禁止されてしまうんですね。

これが八月十八日の政変
呼ばれる事件です。

 

さて、薩摩と会津によって
京都から追い出されてしまった長州。

これだけでも
なかなか辛いですが…

薩摩との因縁は
まだまだ続いてしまうんです。

 

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