安政の大獄ってどんな事件? 分かりやすく解説します!〈前編〉
安政の大獄という言葉は
皆さん聞いたことがあると思います。
ですが、
ああ…あの…井伊直弼?
テストのとき名前は覚えたけど…
……なんだっけ?
という方も
結構多いのではないでしょうか。
さらっと流されがちですが、
安政の大獄は
幕末の歴史上で
なかなか重要な事件なんですよ。
今回は安政の大獄について
解説していきたいと思います!
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そもそも安政の大獄とは?
安政の大獄とは、
1858年から1859年にかけて
江戸幕府が行った
大規模な弾圧行動のことです。
この弾圧のリーダーだったのが
幕府の重役である
井伊直弼という人です。
「きみ邪魔だから謹慎」
「お前も危ない思想だから処刑ね」
といった具合で
井伊直弼が指示を出して
色んな人を
捕まえていったわけです。
それでは井伊直弼は
なぜこのような
弾圧を行ったのでしょうか?
安政の大獄の背景
アメリカからペリーがやってきた
黒船来航の後、
日本は港を開いて開国しました。
次にアメリカは
外交官のハリスを日本に派遣して
「貿易しようよ」
と持ちかけてきます。
日本に滞在しながら
交渉を続けるハリスさん。
「黒船のときも貿易は断ったのに…」
と幕府が渋っていると、
ハリスさんの援軍がやってきます。
大砲を積んだ軍艦です。
あんなので撃たれたらまずい…
ということで仕方なく、
幕府は天皇様に
貿易の許可をもらおうとします。
幕府は天皇様から
政治を任されているという立場。
ですので重要な決定の際は
天皇様のお許しが
必要だったんですね。
しかし天皇様の答えはNO。
当時の孝明天皇は
重度の外国嫌いだったのだそう。
天皇様の許可はもらえませんが、
ハリスさんも引いてはくれません。
するとここで井伊さんは
「天皇様の許可でないの?」
「じゃあ自分が許可するから貿易しちゃおう」
と、天皇様のGOサインがないまま
ハリスさんにOKの返事。
独断で日米修好通商条約を結んで、
貿易を受け入れてしまいました。
この条約が日本にとって
あまりに不利な内容だったこともあり、
井伊さんと幕府は
大バッシングを受けます。
天皇様の意見を完全に無視して、
アメリカの無茶な
要求を飲んでしまった形なので
まあ仕方ないとも言えます。
そしてこのことがきっかけになり、
天皇様を敬う尊王の思想と
外国人を日本から追い出そうという
攘夷の思想が高まりを見せ始めます。
そしてこの2つが一緒になった、
尊王攘夷の運動が
広まっていくのです。
さてさて
批判が殺到している井伊さんですが、
ただ黙っているわけではありません。
尊王攘夷が活発化し、
ついに本題の
安政の大獄へと踏み切ります。
井伊さんは
バッシングを収めることが
できたのでしょうか?
続きは後半で
お話したいと思います!
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幕末ってどんな時代?歴史の流れを簡単に分かりやすく解説!